鈴木清写真展 百の階梯、千の来歴(東京国立近代美術館)

久々に写真が見たくてのチョイス。実はどんな人でどんな写真を撮るのかよく知らなかったけどタイトル見てちょっと興味が湧いたのでというジャケ買い的な理由。

写真家として「写真を撮る」という行為だけでなく、撮った写真をどのように共有するのか。彼は写真集という見せ方に柱を置き、写真集の可能性を探る活動をしているという点が興味深かった。

また、手書きの図面や写真集のためのダミーのつかみ本など、つくる過程や思考プロセスがわかるものが見れるってのはやはり楽しい。校正刷などを使った、オリジナルの手作り写真集、まるでそれ自体が作品のような面白さを感じられた。

写真単体のよさではなく、一連の写真によって醸し出される世界観というか、空気をみないと面白くない写真なのかもしれない…ただ写真だけ並べられているのを見てもふーん、で終わりそうな気がした。彼の写真は最初から写真集という形までつくられることが最終系として撮影されているのかも、と思ってみたり。瞬間を狙うカメラマンが多い気がする中で、彼が見ていた景色はもっと複雑に変換されているのだなあと感心してみたり。

旅とか文学という抽象的にも具象的にも幅をもたせやすいテーマなのでこういうつくり方が生きやすいのかもしれない。時間軸に時空軸が混在したり、パラドックスであってもすべてが回想として存在しうる。それゆえ、写真集がただの冊子ではなく、複雑な構造の奥行きをもつ世界に変換されたように見ることができる。

写真を撮るっていう行為は単に撮影することだけじゃなくて、撮影者が捉えた思いを何かに変換して伝える・共有すること、な気がしている。写真をやる人が増えている。でも、カメラ自体が好き・撮影することだけが好き、というカメラ好きと、撮影した写真を見せることや見ることがが好きという写真好き。大きく二つにわかれるのかなあ…

デジタルでの撮影、ウェブなどデジタル媒体で見せる。プロでなくても自分の望む写真を撮ることができるように手軽になった分、少し減ってしまったことがある気はしている。そういう点で今回の鈴木清が追い続ける写真集という形式へのこだわりはアナログなようでいて温故知新というか、今だから新しい、なのかもしれないなあ…

鈴木清写真展 百の階梯、千の来歴

フランダースの光(Bunkamuraザ・ミュージアム)

フランダースっていうとまあ普通フランダースの犬…いやフランダースとはベルギー北部の地方のこと。ヤン・ファン・エイクやブリューゲルみたいな有名な初期フランドル派な人もいるけれど、今回の展示は日本ではあまり知られていない作品ばかりで正直マイナーな作品。印象派、フォービズムにキュビズムといった美術史的に知られる当時の流派の潮流にのって「◯◯っぽい」印象があふれている。けれどまねっこないやらしさはない、むしろ落ち着く。

テーマがフランダースの光だけあってバリエーション豊富。ネガポジ両方の光の捉え方と表現の仕方で時間を切り取ったようにみえたりして興味深い。舞台となっているラーテム村の空気なのかしら。象徴主義、印象主義、表現主義と様式が違うのにどれものんびりした平和な時間の流れを感じられた。

スメット、当初の技法はスーラとルノワールを足して割ったみたいだけど構図のせいか絵が優しくてドラマチック。全体にピンクがかった絵で印象派的。なのに、時代が変わったら絵が全然ちがう!すっかりキュビズム。ピンクから黄土色に変わってるし、別人の絵みたい。

当時滞在していた日本人の作品も数点。どれも印象派のまねっぽくみえるコギレイな絵。日本人ってやっぱり印象派好きなんだね。昔からwww

もう少しじっくり見ることができたら、似ている有名どころをあげたりして面白かったかもしれない、と展示のテーマと違うことを考えてしまったりw

フランダースの光 ベルギーの美しき村を描いて

上村松園展(東京国立近代美術館)

かつて日本画をかいていた頃、実物を見る機会もあったけれど正直言ってそんなに心惹かれていなかった。鏑木清方や伊東深水などと共にきれいに整ったアカデミックな日本画、すごいのかもしれないけど面白みに欠ける。そういう印象で分類していた上村松園。時代が違うとはいえ同じ女性像でも表情や躍動感で魅せる小倉遊亀なんかの方がモダンでかっこいい。まあそんなことを思っていたかつての自分反省。今回の展覧会は代表作と言われる主要作品が網羅されていて、こんなにまとまって見ることはこれまでも、きっとこれからもないかもしれない。そんないい作品たちを一堂に見ることでこれまでの甘い認識が大きくひっくり返されたうれしい時間だった。

 松園は単なる美人顔の女性をかいたわけじゃない。仕草で魅せる。動き出す瞬間を切り取った写実のようでいながら実はデフォルメがきいている抽象なのだなと今頃になって気づく。厳しく鋭い目で観察されているのに、松園のフィルターを通したあとはリアルなのにとても優しい。

松園の芸妓さんは美人で艶やか、なまめかしいのだけどきりりとした清潔感。芸妓さんの芸に対する緊張感とあいまってさながら冬の朝という感じの空気。鉄線描が柔らかいのに無駄がない。内面の美しさ、外見じゃないものをいかに表現するかに力を注いでいたことを感じた。

仕草の美しさに加えて、松園は薄く透ける色が美しい。薄地の着物が透ける感じというのはやはり日本画ならではな表現がしっくりくる。日本画のベーシックな技法の魅力。日本画のよさは絵の具の質感の魅力は大きい。ベーシックに水干や白から径を重ねて色を濃くしていってフラットにみえてもただの砂じゃないのが岩絵の具。ああ、日本の色は美しい。

仕草と色を活かす洗練された構図。かつてはこういうセオリーなのかなと思っていた構図に大胆な意図があるということを感じ取れるようになったのは、今更ながら私の見る目が成長した…ってことにしておきたいwww

よい日本画を見ると背景に何もないべたでフラットな面が空気に、奥行きにみえてくるから不思議。だからこそ画力が浮き彫りになる。いや画力があるからこそ面を空間にできる。無駄のない線をえらびとるためのデッサンの数々、下図と本画を一緒に見るっていうのはとても興味深い。どういう思いや迷いから絞られていったのかが目の当たりになる。松園の無駄のないそぎ落とした空気をつくるための思考がわかる。そぎ落とされていく分手数が薄いわけでなく、いかにして重ねられているか。日本画をやったことのない人にはあまり知られないプロセスに思いを馳せられる点は日本画やっててよかったなあと思うところの一つ。

松園の足跡をたどるような構成を通じて、松園がアカデミックなものから様々なものを吸いとって自分の中で発酵させて昇華させたんだなあということがひしひしと感じられた。松園の絵に感じる清潔感は松園の自己鍛錬への厳しさから生じるもの、それは芸を極める厳しさの中に芸妓や舞の人と近しい気概なのかもしれないと思ったり。

なんだかんだ感想はあるけれど、思わず息をとめてしまうくらい脳みそとけそうなインパクトに圧倒された。その一言につきる。ああ、序の舞をこころゆくまで独り占めしたかった!松園の描いた絵の人が実在のリアルな人間だったら、さぞや惚れ惚れだろうなあ、なんてくだらないことも思いつつ、とても後ろ髪をひかれるすばらしい展覧会だった。満足。

上村松園展

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読んだ本や見た展覧会などの感想をごにょごにょと…例によって私の話だからオチはないのだけれどwww